読後感が微妙…。僕にはどう解釈してよいのか整理がつきにくい内容だった。なんだか考えても仕方ない事を無駄に考えさせられたような感じもするし、読むのにやたらと時間がかかった。
独特の感性で当時の社会からの脱却を模索し、夢見る社会を大衆に提案しているかのようなエッセイ集だった。たちが悪そうなのが、大衆の中に紛れ込んで、大衆を扇動するようなところだが、あとがきを読むとそのまんまなのかもしれない…。「青春扇動業をやってきた」と本人が語っているみたいで、自覚してるだけに尚更たちが悪いなあと思った(笑)
出てくる話題は著者の妄想と、競馬、パチンコ、野球、サッカー、銃、ボクシング、女、風俗、自殺とか…。僕は男なので、女や風俗への関心は拭い切れないが、他はどれもさほど興味がない。おそらく、僕はこの本を読むターゲットではなかったのだ。というのも、野球、サッカー、競馬、競艇、パチンコ、風俗あたりの内容は飽きる程に日常的な話題としてその場にあった時代が僕にはあった。おまけに毎晩、酒を朝方まで飲むという荒んだ生活をしていた。こういう話しをたまに知人とかにすると、毎晩の意味をそのまんまで取ってくれない。さすがにお金が続かないと思っているからだ。だから365日の毎晩だと付け足す。昭和50年に書かれたものなので、若者の状況はよく分からないが、当時読んでいたら、もっと感想も変わっていただろうと思う。
この本自体の良し悪しは抜きに、寺山修司はとても興味をそそられる人で、競馬の話しやらを抜きにしたものを読みたい気持ちでいっぱいになった。時折、講釈が気持ちいいくらいに刺さってくるのだ。最近こういう魅力ある講釈をたれる大人が少なくなってきたように思う。自分で考えた、自分の言葉を持っていない大人だ。そして、引用してきたものも、興味深いものが多々あった。ただ、僕が無知なので全く分からないし、そのソースでさえ妄想なんじゃないか?と疑ってしまうところもあったので、暇な時に検索かけてみようと思う(笑)
以下は気になった箇所を引用した。
自らの正義をつくり出すということは、自らの法をつくり出すということであり、その管理単位としての「もう一つの国家」をも生成しなければならないだろう。
殺しを文化にまでしてしまったものの犯罪性を問わないかぎり、片桐だけを裁いてみても、事件の本質にふれることにはならないだろう
権力は必然的だが、暴力は偶然的である。わかれは必然的だが、出会いは偶然的である。
「去りゆく一切は比喩にすぎない」とするシュペングラーの観相学は私を魅了した。「科学的にとりあつかわれたものが自然であるに反して、作詞されたものこそ歴史である」という考え方が私を虜にしたのである。
他には自殺のライセンスが良かった。一応書いておくが、決して僕が自殺をしたいから良かったと言ってるのではない。著者が定義する値打ちのある自殺をするには、値打ちのない自殺をしないように、まずは、精一杯生きて精神的にも経済的にも幸せにならないといけないはずで、僕はそのためにも生きてるように思った。
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