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diary201609

セクハラ、パワハラ

セクハラ、パワハラについて職員研修で講義を受けた。まあ世間的にいろいろ言われている事ではあるから、予備知識のようなものと比較するような感じで話を聞いた。この問題って、差別的な発言の取扱方とも似ていると思う。そちらの方では、ついつい最近、読んだ文芸春秋にあったものから引用すると...

差別的な言論は表現の自由を制限されてもやむをえないが、それは相手が不快に思うかどうかではなく、「アカウンタブル(証拠によって合理的に説明できる)」の基準で判別するのがいまの常識だからだ。

ということらしい。しかしながら、講義では、セクハラは、相手が不快に思った時点でセクハラになるという。問題を混同している感も我ながらあるとは思うが、どうもこの一点は腑に落ちない点として後味の悪い話として印象が残った。

そして、この問題はざっくりと考えたら、弱者と強者のパワーバランスを平均化する話でもあると思うが(公平、平等を訴える話題の本質は、平均を求める話で、弱い人に合わせるか?強い人に合わせるか?で荒れる)、それをどちら側に平均化する話なのか?と言われたら、もちろん弱者となる。個人的に驚いたのは、体力の差や運動能力の差によるものを、仕事上押し付けがましく言うとパワハラになるという話だった。これについても、また引用するが...

男女の権利は平等でも、脳の機能のちがいが、仕事の好き嫌いや適正に反映されているー。この主張が「差別」でないのは、反証可能なかたりで提示されているからだ。納得できないのであれば、性差で脳の機能にちがいがあっても職業適性には影響しないと、証拠に基いて反論すればいい。いずれが正しいかは別として、これは科学的論争であって差別問題ではない。

これは、脳の機能のちがいについてを根拠にしているが、体力や運動能力の差も、脳のちがいにくわえて、骨格、あるいは骨/筋肉の可動域、身長・体重、視力、聴力...ときて、DNAの違いによっても、適正かどうかを語る事ができそうではある。が、しかし、講義ではダメという事らしい。この辺もどうも後味が悪い話になった。うーん、この講義は時間が少なかった分、言葉足らずな説明になったのかもしれないな?

あとは、弱者も強者も互いに言論を弾圧しあう話題になりがちだということや、弱者側が嘘をついている場合(こういう人間は必ず存在する)は、多々あるハラスメントを利用し、強者側の力や信用をうまくfree rideできる。このような二次的な問題を量産してしまうかもしれない上に、もし量産された場合の社会的な損失が考慮されていない点は無責任であり、相変わらずっぽいなと感じた。新しい思考実験して社会を変えるのであれば、一応イレギュラー対応も最初から考えないとお利口さんとは言えないし、何より困るのが、真の被害者が受けなければいけないものが、嘘をついた偽被害者達に得られるものが分散化されてしまい、結局のところ大して救われないということ。そして、問題は新たな問題を生み、争いや競争を増やす結果にもなりかねない。

強者側からすると、言い方によって判断が変わってくるのを逆手にとって、表現が変えて遠回しに言う方法を考えるだろう。日本語は表現が豊かだし、主語をあやふやにしながらでもなんとなくでも会話を進行できる。つまりは、加害者側の人格を本質的に変えるという点では、ここからは何も始まらない。そして、本人に言うとまずいとなれば、共感者同士で本人がいないところで消費されるクローズドな話題となり、公私の二極化も進み、それを傍観する人は、何を信じたら分からないと嘆くんだろう。個をあまりにも尊重しすぎると、公の方では組織、家族、グループ等の集合、共感、価値、効率が損なわれる事になり、バラバラになった個を裁く立ち位置となるものが発展しやすいので、他者からの内政干渉を可能にする。よって個の自由は抑制される。本来、自由で特別でありたかったはずなのに、結果は受け入れがたい現実が待っているというわけだ。この一連の仕組みや、手法的なものをうまく利用すると悪い商売も思いつきそうだし、なんか行きはよいよい帰りはこわいとか、ケータイ電話のよくわからんプランの数々を連想したりする。詐欺臭いカテゴリーに分類してもいいような気がしないでもない(笑)

この○○ハラメントを声高に問題定義することにより、どの組織が得するんだろう?と考える事、人権について語られる時の最小単位のようなものがどこなのか?ということを見極める事、歴史的に見て弱者はどこまで強くなるか?あるいは、強者側の平均を落とす事が可能なのか?そして、実際に何の得をして何の損をしたか?と考えていく視点で、今後も生暖かく見守っていきたいと感じた。


2016-09-28 00:00 tags:セクハラパワハラ